ところで・・・私の苗字である小野崎。
あまり皆さんの周りにはいないですよね。でも実はこの氏は皆さんも知っている歴史上の人物の子孫だと聞けば驚くかもしれません。
それは645年、大化の改新で中大兄皇子とともに中心的人物だった中臣鎌足(なかとみのかまたり)
後に改姓した名前が
歴史に燦然と輝くあの藤原氏の初代です。その藤原氏が四家に分かれ律令国家を作っていく中で、四家それぞれの栄枯盛衰があるのですが、その最後に反映した藤原北家の子孫が地頭として住み着いた茨木県の
小野崎という土地
1109年、ここで藤原から小野崎に氏を変え、ここに築城し地域を治めたのが小野崎家の始まりです。
まだイイクニツクロウ1192年鎌倉幕府にもなっていない時代です。
そしてこのように
・・・歴史探訪サイトより引用・・・
小野崎家の記念碑があり、その内容を読むと
小 野 崎 城 址
小野崎氏は中世の常陸国で佐竹氏の宿老や守護代の重職を勤めた名族である はじめ鎮守府将軍藤原秀郷の六世の孫通延が常陸国太田郷に移住し太田大夫と称した その子の通成は佐都郡に移り孫の通盛の時 小野崎の地に土着して小野崎氏を名乗り城を築いた 通盛の子通長の時に佐竹氏に臣従し 代々主家を助け身命を投げ打って多くの合戦に活躍した 南北朝の動乱がはじまると小野崎一門は佐竹義篤に属して各地に転戦し 討死する者もあった 佐竹氏はこの動乱に対処するため小野崎通胤を多珂庄に移した 通胤は父祖の地を去り友部に築城して移住した その子通春は隣接の地山尾に築城して移り小野崎惣領家は代々山尾に居住して山城守を称することになった 小野崎城址は小野崎氏発祥の地であり通盛 通長 通政 通経 通房 為通 高通 常通 行通 通胤に至る十代約二百年間の血と汗の地である
ここに小野崎氏の末裔が相はかり祖先の偉業をしのび 史跡を後世に伝えるために記念碑を建立するものである
題字 常 陸 太 田 市 長 武 藤 彬
撰文 茨城県文化財保護審議会委員 志田 諄一
久 慈 郡 大 子 町 野内精一郎 書
そして小野崎氏一派は茨木県や福島県いわき周辺に築城します。
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つまり私たち小野崎の性を名乗る家は藤原家の末裔として小野崎を名乗り、歴史上各所で武家として戦果をおさめてきた祖先をもちます。また江戸時代には秋田県を中心に治めた佐竹氏の重臣となったり、実は伊達家にも仕えた歴史を持ちます。
とはいえ由緒ある家系なんて普段から何か目にしなければ意識すらしません。家にも簡単な家系図くらいしかないし。
で、先日シニアの試合が秋田であったのですが、雨で延期になり時間が空いたので、秋田にも小野崎家の足跡があると知っていたので、この機会に念願の
を見に行くことにしました。
江戸時代の武家屋敷の中でもかなり大きいもので、北に位置する家は上方にあるので位が高かったとの事。
うちの表札です!
と言わんばかりのママ。それにしても立派なつくり。
この武家屋敷は当時の形を再現しているので、実際はここにあったらしい。
それにしても今あの建物は、なんと武道館として使われているなんて、私としてはなぜかとてもうれしい。
うちに嫁いだママにも小野崎の名を理解したうえで日々の振る舞いをこの機会に見つめなおしてほしいなぁ。
はい。あなたは角館グルメ旅行気分だな!比内地鶏おいしいもんなぁ。
大化の改新はヤマタケの祖先!
とだけ覚えたら歴史上に人物も少し身近に感じるかな。