


こんな事件がおきてしまった
今は普通に暮らしていると聞いたが
昔と違うのはあか抜けてしまったこと
1つ言うが私は専門家ではない
皆さんも同じだとおもうが
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ただいまコメントを受けつけておりません。
親族の子供の中には、今、秋の運動会の練習中の子供達がいます。その子達を見ていて親族の親達の感想というか、自分達なりの「子どもの生態」への理解について話を聞きましたので少し記事にしてみようと思いました。
運動会となると、親族の子達の行動はいくつかにわかれます。
・最初から参加しない(できない)子
・自分なりの工夫や装備を準備して、少しでも参加する子
・参加したくてもできない子(不登校の子や二次障害、過敏性が強い時期などが理由)
・普通級の同級生と全く同じに参加する子
などです。同じ学年の同い年、同じ性別の親族の子達が同じ小学校に通学していても、ある親族の子は運動会に同級生と同じ条件、同じ環境で参加して、ある親族の子は様々な理由からできない、ということはあります。
何が違うかと言うと、一言で言えば「子どもの状態が違う」ことでしょうか。
状態と言っても
・特性そのものや特性からの「今の発達状態」は異なる(過敏性がある、自閉の閉じ方・強さが違う、など)
・今までの積み重ね・経験が違う(経験不足、経験から積み重ねた自分なりの工夫や対策が可能な状態である、など)
・過去の積み重ねから来る心身の健康状態(健康か、不安定か、二次障害に近い状態まで行っているのか)
・発達状態が異なる(身辺自立までで、まだ社会的なイロハまでは学べていない、または社会的な学びが伸びている最中である、など)
こんな風に、同じ学年、同じ年齢の親族の子達でも上の点で異なれば、結果として集団生活上の例えば運動会のような行事に参加する、しない、できない、などの結果も自ずと変わってきます。
そのため、親族の親達も「自分の子供の状態に応じた」対応をするため、運動会まであと何日だね、とただ井戸端会議をする状態になりません。ある親族の親は運動会が終わるまで毎日、練習がある日は子供について学校へ行くことになったり、ある親族の親は学校に送り出すだけで特に何もせずにいる、ということが普通に起こってきます。
運動会当日も親族達が一緒に動いて一緒に運動会を楽しく見学する、ということもできなくなります。いわゆる「個別に自分の子に対応しなくてはならない」ので、例え親達が親族で仲がいいからといって、一緒に見に行って一緒に応援する・・・という行事の当たり前な光景が繰り広げられることはありません。
ここでタイトルの「社会的」学びと「習慣的」学び、について合わせて書いていきます。子ども達は小さいころから大人になるまで少しずつ成長し、最初に学ぶことである身辺自立=自分が生きていくための衣食住に関するノウハウ、からちょっとずつ、集団生活に入っていくようになり、社会生活のノウハウを身に着けていくようになります。
この特性や特性から来る心身の不安定や浮き沈みと付き合いながら、身辺自立から社会的な学びまで移行していく時期が、一番、発達障害の子達には苦労の連続であろうと思います。その時期にあたるのが小学生の児童期であり、小学校という「社会的学び」が盛りだくさんの組織で四苦八苦するわけです。
小学校という組織で求められることは山ほどあります。
・集団の団結や組織力
・子ども達の参加力が試される行事が盛りだくさん
・休憩時間=遊びという社会性が試される自由時間が盛りだくさん
・知識力の養成や聞く力・話す力を発揮するように求められる数多くの主教科・副教科、社会学習、体験学習が盛りだくさん
・放課後遊びという自由時間での友人関係の構築(大人であれば仕事後の上司や同僚との個人的つきあいの構築に相当します)
それにわずか6歳から6年間も対応していかなくてはなりません。
発達障害の子達は、親族の子達がそうなのですが、どんなに利発で会話力があるように見えても、保育園や幼稚園で問題のないように見えても、「身辺自立」はできていても「社会的学び」の部分が弱く、同学年の子達よりも発達年齢が1、2歳ほど下、ということは多いです。
同学年の子達が当たり前に気の合う子達と友達になりグループを作り、周囲に気を配ったり、譲ったり、時には強く出て周囲の子達の賛同を得る意志表示の仕方をしたりとコミュニケーションスキル、ソーシャルスキルを試しつつ発揮していくのに比べて、その部分で
「自分から見て・聞いて同級生のように学びとれない」
「自分であれこれ試してコミュニケーションスキル、ソーシャルスキルを積み上げていくことができない」
という特性の、社会性を学ぶ力に弱い部分がある親族の子達は、その分だけ対応能力を備えずに小学校へ上がっていくことになります。
もちろん家庭で、親と1対1で、療育先で、専門家と少しずつコミュニケーションスキル、ソーシャルスキルを身に着けていくようにはしていますが、同級生の定型の発達速度には追い付かないのが現状です。ですので、結果として発達障害の特性がある親族の子達は小学校の低学年という年齢では、集団生活の中で
「自分だけ上手く対応できない」とか
「友だちはあまり悩まず普通にやれてるのに、自分だけ悩みが多い、友達とトラブルになる」
などの現実問題に直面する日々を送ることが多いのです。
話を戻して、この状態で「さあ、行事の運動会を同級生のようにさっそうと参加してね」という期待ができるかというと、ちょっとした場面、場面でつっかえつっかえしているため、総じて「運動会の練習」そのものに対応できかねる、という状態になってきます。
例えばですが、聴覚過敏で音が無理、と言う子はノイズキャンセリング機能のついた耳宛てをして参加していたりしますが(*記事最後に耳宛てを載せておきます)、逆に過敏性のない親族の子の方が同級生が並ぶ列に並べない、ということが起こってきます。なぜでしょうか。
内面に抱える問題点が違うからです。過敏性のある子は見た目、とても特性がはっきりしていてハンディが大きいように見えますが、この親族の子の場合ソーシャルスキルの面では柔軟です。自分で「ピストルの音がするとびっくりして何もできなくなる。走れなくなるからお医者さんからイヤーマフするように言われた」と同級生に説明できる、同級生に説明して輪に加わる、ということができています。その部分では躊躇もなく、悩みもしません。
一方、運動会の練習で列に並ぶことができない親族の子は内面に葛藤を抱えています。自分が走る出番まで、隣のクラスが走っている順番を待つ間、待機時間に抱える悩みがあります。自分以外の周囲の同級生が何気に楽しく話をしたりふざけたりしている中、「自分はどうしたらいいかわからない」時間をじっと過ごしています。周囲の子達が「あまりにも普通に」会話をしていたり、砂をちょっといじりながら遊んでいたりしているのを見て・聞いてしている間に
「どうしよう、自分だけ一人だ」
「何でみんな普通に話してるの」
「自分には話しかけてくれない、でも話しかけられてもどうしたらいいかわからない、話が続けられない」
「昨日も誰とも話さずに練習が終わった。今日も自分だけ、列の中で『ぼっち』になるのかな」
なんてことを、ぐるぐる考えています。周囲の子達は自分なりに時間つぶしをしているだけで、親族の子が一人でぐるぐる悩んでいるとは気がつきませんし、特に仲がいいわけでもないので話をする理由もないですし、単なる時間つぶしの間のことですし、関わらないので知らないのです。そして親族の子は「自分から話しかける」ことが難しいです。その話しかけた後どうしたらいいかわからないからです。
そうこうしている間に、ぐるぐる悩む頭の多動がいきすぎてこの親族の子は自家中毒のようになり、運動会の練習に参加することが難しくなりました。先生やスクールカウンセラーに言ったところで
「運動会の練習は遊ぶ場所じゃないから、順番を待って自分の出番が来たら走る、それだけでいいのよ。」
「ちゃんとまじめに列に並んでふざけることもないし、頑張れているよ」
という声かけはもどってきますが、「ちょっとした自由時間に同級生と上手く付き合う会話、言動ができない」というこの子が本気で悩んで行き詰っている不安を取り除くことができません。問題は「この子自身の社会性、ソーシャルスキル」なわけですので、具体的な学校行事の参加や参加する姿勢に問題がある、ということではないのです。
親には子どもの未発達なところ、経験値がまだまだ上がっていない部分のことがわかっています。「その場で同級生と対等に、同じ様に自然に対応することができない自分のスキルのなさ」に嘆いているこの子に即席で何かできることは本当に少ないので、悩みすぎないように・頭が多動になりすぎて考えすぎて、思い詰めすぎて体調を崩すことのないように「別室に移動して強制的に頭を休める・休憩を取る」ために学校に待機していたりしました。この子は暇があると頭の多動が行き過ぎるので、頭というパソコンをスリープさせるような感じです。休憩室でこめかみをマッサージしたり、たわいない話をして「友だちとしゃべれない」思いつめ思考から気をそらせることをしました。
実際にこの子は一つ悩みだすと思い詰めすぎて待機時間に顔色が青くなったり、貧血気味になったりしていたので同級生も1人この子が抜けることに不思議は感じていませんでした。物静かでどちらかというとクラスでも存在感がないので、たびたび抜けても誰も揶揄することもありませんでした。
そうして青息吐息な状態で、何とか運動会を乗り越える、というようなことをしたわけです。
それでもこの子の親は上の兄弟が似たような状況でしたので、焦りもありませんでした。ただ、低学年の間は経験値も低い上に社会性のスキルも低いので、例え親が少しアドバイスしたところで受け入れられる器(余裕)が全くないから言ったところで無駄、むしろ追いつめるので、できることは「体調を悪くするほど多動な頭を強制スリープにすることだけ」と割り切りました。運動会の練習で同級生と同じ列で待機しても悩みつぶれることがない状態になるまで、あともう数年はかかるな、と思っているだけです。
実際にお兄ちゃんの方は、小学校では同じ様に運動会の練習さえまともに出れてませんでしたが、中学では同級生と何も問題なく運動会などの行事にも参加できています。いわゆる、「待機時間にみんなと同じ様におしゃべりしたり、普通に・自然にすごせない自分はおかしい、できるようになりたい」という無意識の焦りが、小学校低学年時点という未熟で未経験な時期ということもあり、自分自身を追いつめていた、という例であることを親は知っていました。
お兄ちゃんの方は「自分はこんな感じ」と自分への理解がすすみ、少しずつ自分に合う友達が見つかり、自信が少しつき、かつ「運動会という行事」への慣れも伴い、意識の成長、自分への理解の深まり、経験という慣れ、が同時に積み重なった時点で「参加できる」ようになっただけです。親が関わったのはこの子なりの「自分への理解」のための専門家を見つけてつなぐことや、家庭での親との会話、やりとりで認知の歪みを発見すること、不足していそうな定型社会の知識を本やDVD、テレビ番組や映画などを活用して情報提供し補うことなど、その部分が主です。「運動会」という行事への関わりではなく、です。でも結果は「運動会に出れるようになっている」のです。
大事なのは、運動会に出れないから出られるように関わる、というのではなく、「子どもの成長できていない部分」、多くの場合、自家中毒になるぐらいの思いつめぶり=頭の多動だったり、自分自身への無理解だったり、そもそもソーシャルスキルやコミュニケーションスキルがないまま身につけずにいきなり学校という集団の場で実践している状態だったり、と課題は山積みなことが多く、それらがつまづきの理由であることが多々ある、という発達障害の子独自の問題点、課題、現実を理解しておくことです。
「そんなことを気にしていないで、とにかく運動会の練習には列に並んで、走るだけでいいのよ」の言葉で解決できない「子どもの思いつめぶり」は、思考回路、考え方の癖、やめようとしてもできない頭の多動、スキル不足から来る不安などの問題が発露しているわけですから、根本的にはそこを対処しないと運動会だけでなく、他の行事やクラスの発表やプレゼンテーション、遠足、研修旅行にいたるまで影響を及ぼしていきます。どれも参加しない、したいけどできない、などの結果になっていきます。
逆に言うと、根本的な特性部分の課題に早くから取り組んでいくと、小学校中学年、高学年、中学になると、あんなに不安定でちょっとした理由であれもこれも挫折していた子が、なんとか集団生活の軌道にのれるようになってきた、という結果に至ることが多いです。
要は、いつも繰り返し記事に書いていますが、成長していない未熟な、未発達の、同級生よりも数年遅れている発達段階の弱い(遅れている)部分を学校外で、家庭で、療育先で、療育になりそうな習い事先で補っておく、定型社会のことを理解できるように利用するツールは他人でも本でもDVDでも何でもいいので、定型世界を知る機会を提供する、定型社会のイロハという情報を、知識を増やしてあげる、自分の得意・不得意を利用して生きていくことを日々、学校外(家庭・習い事先・預け先)で実践し工夫の仕方を身に着けて学校という実践の場へ戻っていく、というような地味な作業で解決していく、ということです。
トイレや着替え、食事、公共マナーなど身辺自立は1人の人間として日常生活を送る上での「習慣的」な学びです。保育園や幼稚園では主にそうしたことを発達障害の子達は自分なりにパターン化して覚えていきます。ですが、
・お友達との「会話の内容をどうするか」
・「どんな風に声をかけて、断られた時にどんな風に反応して、どんな風にとりつくろって、自尊心を損ねないようにするか」
・仲のいい子から「嫌なことを言われた・された時の言い方、逃げ方はどうしたらいいか」
・あまり知らない子から誘われた時、気が向かない時、何て言えばいいか、どうしたらいいか。
などのスキルは誰も教えてくれず学んでいません。
どうしたらいいかわからない子は、大人がアドバイスしても聞きながらそのままです。大人はそれを「聞いていない、スルーして、無視して」と誤解したままだったりします。言われても自分のスキルではできない、難しい、または言われていることすらわからない(定型の常識がわからない、自分は非定型思考だから)のです。
そのまま小学校へ上がったら、人の中で上手く泳げない=コミュニケーションがうまくいかない、社会的に上手く振舞えないのは当たり前なのです。
そこは「社会的」学びの補足が必要です。
定型発達の子供達が保育園や幼稚園という組織の中で当たり前に自分で試して学んでいくのに比べ、発達障害の子は「社会性を学ぶ装置(機能)に自動的にスイッチが入らない、発電するまでに数年かかる」状態です。その部分に関わってくれる大人、その部分を適切に刺激してくれる環境(気の合う似たような子がいる、もしくは思考回路を理解してくれる1人の人間がいる、他人の声や掲示板や飾り、お道具などの視覚の混乱でわーっとならない落ち着けるごく少人数の構造化された空間など)などを支援として調整し提供していくことが、結果的に発達障害の子の大きな飛躍、成長に結びついています。
以上、「運動会に参加できない」という事例を使って、実の所、原因は根本的な「社会的な学びがおいついておらず、社会性の部分で本人が苦しんでいるから」という点が隠れていることもある、というケースを取り上げてみました。案外、親族の子には昔から多く見られるケースです。
話しがあちこちに飛んでしまい、まとめきれないまま修正したりで下書き記事状態で約1ヶ月を経過したのですが、運動会は10月に終わるよ、今アップしないと意味がないよ、という親族の言葉に背中を押されて中途半端な草稿ですが、そのまま記事にアップさせていただきます。読みづらい文章で申し訳ありませんがご了承いただければと思います。
<参考>
ノイズキャンセラーについて:
ソーシャルスキルの学習教材の参考例:
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伝える時のコツになる参考資料:
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