


こんな事件がおきてしまった
今は普通に暮らしていると聞いたが
昔と違うのはあか抜けてしまったこと
1つ言うが私は専門家ではない
皆さんも同じだとおもうが
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今月末で終了してしまう「ひよっこ」。
毎朝視聴している者としては、最終回が楽しみでありつつも「ああ終わってしまう」と寂しさも募る日々です。
ひよっこの脚本を書いていらっしゃる岡田さんのお名前を初めて知ったのは、同じ朝ドラの「ちゅらさん」で。
そのしばらく後に後放送された「おひさま」の時も「素敵なお話を書く脚本家さんだな、どなただろう」と調べたら、それもまた岡田さんの脚本だったという思い出があります。
私は「良い人がいっぱい」のお話が好きで。
だから、今放送されている「ひよっこ」も、笑ったり泣いたり、お話の流れのを知る中で自分の人生を振り返って考えさせられたりと、日々様々な考えを巡らせるきっかけをいただいている気がします。
(今日の愛子さんの昔話も泣けて泣けて、、、、、)
人との関わりやの中で、人を好きになったり、揉めたり、一緒にいることを選んだり、離れることを選んだりすること。
キャストの皆さんのそれぞれの人生におけるそういった「それぞれの人生の形」を見る度に、私も改めて「これからの人生をどう生きるか」を考えたり、過去を振り返って後悔したりもしています。
とはいえ、やはり過去はどうやったって変えることは出来ず。
してしまったことは、どんなに言い訳をしても「そういうことをした事実」として残るわけで。
その「してしまったこと」に区切りをつけたとしても、完全に終わることはきっと一生無いのだと思いますし、そのことで「傷つけてしまったであろう誰か」への償いの気持ちは、一生忘れてはいけないのだと考えます(と、自分に語り掛ける私です)。
上手く言えませんが、、、、。
というか、私の人生と朝ドラを比較して考えること自体が「ドラマに失礼だ」と恥ずかしくも思いますが。
そんなことを、最近起こった「私の婚外恋愛の終了」や「ママ友の婚外恋愛騒動」で改めて考えましたし、時が経っても考えることは尽きず、その質も日々変化したり逆戻りしたりしているなあと感じているところです。
朝ドラといえば、先日彼と話した時に、彼が「朝ドラなんて初めて見た。今まで仕事三昧でそんな機会は無かったから」と言っていて。
それは少し切なくもありました。
私は中学高校と仲が良かった友人(同級生)を23歳の時に亡くしていて。
ふと、その時の事を思い出したから。
彼女は学生時代から頭の回転が速くて仕事も出来て。
生徒会役員などもやっているすごい人なのに、私のような地味な人間にも優しくしてくれて。
同じ部活で親しくなる機会に恵まれた私は、とても嬉しかった。
やはりどんなに隠しても、私の親の事などは周囲に知れるし、だから私を敬遠する人もいたように記憶していますが、彼女は「子供は親を選べないんだからさ。私は千鶴ちゃんを見て付き合ってるんだから家の事は気にしないで」と言ってくれた。
私が「好き」と思える存在になってくれた、友人。
そんな「出来る女」だった彼女でしたので、就職してからもずっと一生懸命働いてどんどん昇進もして、私から見たら彼女は「人間性も含め、仕事の出来る女性」としてあこがれの友人でした。
そんな彼女が急に入院になって、その知らせを受けた私は何度もお見舞いに通ったのですが。
ある時ふと「朝ドラ」の話になって。
「入院したことで初めて朝ドラ見てるよ。面白いね」と言った彼女が、私と朝ドラの話で盛り上がって笑いあった直後に「まいったよね、私の身体、8か所転移だってさ」と、ぽつりと言って。
驚いて、何て言って良いかわからなかった私の前で「今までありがとうね」と言って、彼女の手が私の手をぎゅっと握ってきたことが、私は今も忘れることが出来ません。
まだ23歳。人生これから。
やりたいこともいっぱい、いっぱいあったはずなのに。
そんな彼女はその10日後に、亡くなってしまった。
その「あまりにも早すぎた別れ」を、私は彼との朝ドラの会話で、思い出してしまいました。
彼は現在、毎朝奥様と一緒に、病室で朝ドラを見ているとか。
(奥様はその後仕事に向かうとのことでした)
私にできる事は何も無くて切ないですが、どうか彼と奥様の時間が長く続きますようにと願いますし、出来る事なら「元気になった彼が、奥様とずっと楽しく一緒に朝ドラを見れる人生を送って欲しい」と心から願うばかりです。
続きでございます。
私の両親は私の結婚後
2年近く経った頃に離婚しています。
で
父は仕事も出来て人望も厚く
地域の役員やPTA会長に子供会会長もバリバリとこなし
趣味のクラブの会長もしていました。
その上色男だったのでとてもモテました。
打って変わって母ですが
父より8歳年上ですがのん兵衛で掃除下手で
料理もこれまたレパートリーの無い
例えばお弁当のおかずと言ったら
ご飯の上一面に
玉子と醤油を混ぜて焼いただけの炒り玉子が乗っているだけとか
ふりかけと沢庵だけとか
たまにそれに焼きたらこが乗ってるだけとか
まぁ、そんな感じ。
学校から帰ると昼間から飲んで寝ていたりで
そのせいかどうか
「女の子の躾」として
私は小2の頃には買い物に行って
晩御飯の用意が出来る様になっていました。
(それはそれで今役に立ってる)
家は足の踏み場が無いほど散らかっていたので
友達を呼ぶなんて事は一度も出来ず
当時の家庭訪問は必ずと言っていいほど
家に先生が上がっていたのですが
いつも玄関先のみ。
母は父が一番可愛がっていた私が結婚したんで
それをきっかけに女遊びが激しくなったと言い
父は私が結婚した事が原因じゃなく
それ以前からも複数女がいた様で
ぶっちゃけ私にしてみたら
そんな自堕落な生活しといて
旦那に女が出来て当然だろよと母に対しては思っていた。
掃除も洗濯も炊事もまともに出来ない年上の女房で
かと言って近所にパートに出たかと思えば
数日から数週間
長くても2~3カ月で
やれ腰が痛いやら足が痛いやら
パート仲間に嫌な事を言われただの
パート先で使う洗剤が体に合わないだの
とにかく仕事が嫌な人なんだと言う事は分かった。
父になんで結婚したのかと聞いたら
「若気の至り」と言う事でなるほどなとww
母にしてみれば
男前で仕事をバリバリして食わせてくれてと
良い条件の男だったと言う事だろうが
父にしてみれば
8歳年上なのに家事下手料理下手で
昼から飲んで寝る様な女だとは思わなかった事だろう。
で
色々端折りますが
私が結婚するまでの母は
旦那は金持って来てくれたら
後は好きにしたらイイ的な態度だったのに
私が結婚した途端に
父を束縛する様になった。
飲みに行っているであろうスナックに
「うちの人おる?」と軒並み電話をして
いないと聞くと
「おるんやろ!?アンタがうちの人の女か!」
と怒鳴りつけ
店に直接怒鳴り込みに行く事もしょっちゅうで
「うちの人を隠しとるやろ!」だのと言っては
めぼしい飲み屋を回っていた。
その間上弟は専門学校の寮生活で
下弟は中学生だったが当然ほったらかし。
ついには父の仕事関係の取引先数件にまで電話を掛けては
「あんたもグルか!あんたにも女がおるから庇っとるんやろ!」
と言い出し
それで父は離婚調停に掛け1年ほど掛かって離婚した。
その離婚調停中も成立後も
母は深夜に阪神高速で
下着姿で酔いつぶれて寝ているのを警察に保護され
その他にも酔って路上で寝込んで
救急車で病院に運ばれたりし
その度に私の名前と住所と電話番号を口にして
「うちの娘は○○病院の看護主任!」とウソ糞を言い
それこそその度に警察やら病院から
私に電話が掛かって来て飛んで行くハメになる。
飛んで行った先の病院では
看護学校時代の同級生が当直していた病院だったりで
私は看護学校でも委員長だの何のをやっていて
結構成績は上の方だったんで
「この人ってかづさんのお母さん…?」と聞かれ
本気で何度も轢かれて死ねばいいのにと思った。
(轢く方には迷惑だけど)
ウチの姑がまだ現役バリバリで私をイビリ倒していた時も
世間が寝静まった夜中になると
母は姑に電話をし
「娘をイビリやがって!」と呂律の回らない口調で怒鳴り
けれどもそれは娘の事を思っての事かと思ったら
「私の娘をいびった迷惑料として金を払え!」と言うもので
いわゆる強請集り(ゆすりたかり)だった。
そんな事をすれば
娘が嫁ぎ先でどんな目に遭うのか分からん訳でもあるまいに。
私が母にやめてくれと言うも
「私が不幸になってるのにあんただけ幸せにさせるか!!」
と言う母だった。
液体咳止め液を数十本飲んで
急性中毒で病院に運ばれたり
心臓が苦しくなったと救急車を呼んで病院に行くも
着いた頃には痛みが無くなったからと
診察も受けずにスタスタと歩いて帰ろうとし
診察を受けないなら救急車代を支払って貰うと言われたら
病院の事務所で
これまた私の名前や住所と電話番号を
携帯の番号まで全部喋り
「娘を呼んで!!!」の一点張りで
埒が明かない状況だから直ぐに来てくれと
病院の事務長から電話が入った事も1~2回ではない。
父と母の離婚成立時の条件が
「(未成年の弟二人の)親権を放棄するなら慰謝料増額」
と言う父の要求だったが
アッサリとその条件を母が飲んだので後に聞くと
「親権を放棄してもあんな父親なんか捨てて
(息子二人共)絶対に私の所に戻って来てくれるから♪
だから条件を飲んでお金を貰った方がええ。
将来は長男と同居して孫に囲まれて過ごすのはこっちや。」
と母が言ったのには呆れた。
そんな訳ねーじゃねーかよ。
で
父と母が離婚した時点で
私の弟二人の親権を母は放棄したが
私は成人していたので
法律上がどうたらとかはこの際関係無く
役所やらなんやらと言うのは
姉弟3人いても
「下の弟さんについては○○さんは親権を放棄してるんで」
と言う前提で物を言う。
その上母自身がどこの役所でもどこの手続きでも
全て身元保証人やら引受人やらの欄に
私の名前と連絡先を書いていたので
いわば姉弟の中で私だけが逃げられない状況だった。
母自身が「親権を放棄した」と言う事から
弟達自身が父の元から出て来るまでは
親権云々の縛りが無い
娘の私が自分の身元保証人で当然だろうと言う認識だったんで
それこそ至る所で私の連絡先を登録や申請で手続きしていた。
まぁ
何が言いたいかと言いますとね。
離婚すれば本人は「他人」でしょうけど
子供にとっては一生そいつが『親』な訳ですよ。
私は父に言いましたよ。
「自分は離婚してそれで他人で済んだやろうけど
こっちはあんなんが一生親なんやで!
お父さんは単に逃げただけやん!
お母さんがあんなんになった原因はお父さんにもあるんやから
責任取って欲しいわ!
そりゃ離婚して逃げたら終いやからソッチはエエやろうけど
こっちは一生ついて回るんやで!」
結婚していれば
「お前の嫁はんやろ!」と言えますけど
離婚してるんやから
父にしてみれば
「お前の親やろ!ワシは他人や!」って所なんですよね。
役所や警察にしても
離婚してるんだから父の所には連絡はせず
全て「娘さんですよね?」と連絡してくる。
弟二人が成人した後でも
「離婚時に親権放棄したから」と言う一言で
弟には全く連絡が行く事無く
全て私に連絡が来た。
ですんで
私が夫と離婚をする選択をしなかった理由の一つは
私は離婚をする事で夫と赤の他人(?)になれますが
息子達は一生この人を「父親」として背負う訳です。
背負わなくても縁を切っても
音信不通になっても
「血を分けた親」として
一生消える事の無い存在になる訳です。
私が姑からの嫁いびり絶頂期に離婚していたとしたら
当然夫は「人でなしの権化」の最上級の頃でしたし
計4回の調停の中でも(合計4回家庭裁判所に行ったと言う事ではなく、4回調停を起こしたと言う意味です。夫がw)
夫は調停の場で
「もしも離婚するのであれば親権は放棄するし面会権も放棄するので、慰謝料も養育費も支払いは拒否する。」
と言った事があり
「それって別れても金は払わんし子供の事も一切知らん。
会う気も無いから養育費も払わんって事?
それって離婚した後子無しの独身としてやり直すって事やん(笑)」
と突込み
「ご主人。
面会権はあなたの権利ですが、養育費の請求はお子さんの権利ですから拒否出来ません。
親権と面会権と養育費とは別問題です。
慰謝料も金額が決まれば拒否出来ません。」
と調停員から言われて
夫はショックの色が隠せなかった。
( ´艸`)プッ
挙句
「本当に離婚になったら全財産を使い果たして
会社も辞めて無職無収入になる!
一円も払いたくない!」
(おそらく舅姑宅に転がり込む腹だったんだろう)
と言った事もあったんで
あの時に離婚していたら
「親権も放棄して子供に一切会おうともせず、養育費が決められても一円も払わずに無職になって逃げた父親」
って状況だったと思う。
で
金づるのジジババが亡くなった途端
長男と次男に泣き付こうとする奴になっていたであろうと思う。
ウチの夫の事だから
息子達の勤め先にまで電話をしまくり
金の無心や何やかんやや
病気になったり保護を申請する際も
「長男はココで次男はココに勤めてます。
住んでる所と連絡先の電話番号は…」
とペラペラ喋るに決まっている。
家の近所で待ち伏せでもして
嫁や孫に直接接触しに来るかも知れない。
いざとなったら何をしでかすやらだ。
そんな夫を
まぁ何とか店長だの役職付きだの昇進させ
人並みに定年まで勤めあげさせ
今なおその会社に継続雇用して貰い
来年の本定年後は
年金やら企業年金やら個人年金やらw
住宅ローンも車のローンも無く
食うに困らん生活が出来る状況を見てみると
この判断で良かったんじゃないかなぁと思います。
ちなみに父は肺がんで亡くなり
その数年後に母は膵臓がんと甲状腺腫で亡くなりましたが
どちらも亡くなるまでの数日間は病院で付き添いましたんで
私的には納得した見送りかなぁと思います。
ちなみにちなみに
母の入院に関わる一連の費用は
福祉で請求出来る物以外の全てが私に請求が来ました。
母が福祉にも病院にも
私が身元保証人だと言う書類を勝手に出していたので
病院は弁護士立ててでも取る構えでしたし
私は母が勝手に書いた物だと言う証明をするのに
時間と労力とお金が掛かるし
私が証明した所で次は弟達に請求が行くので
それに関しては全額私が支払いました。
そんなこんなもあったんで
まぁ他にも色々色々色々ww
だから私は夫に言いたい放題なんですww
たくさんある過去記事に
ちらほら色々書いてるので
お時間のある方は探してみてね。
あぁ
だからと言って
離婚を否定している訳じゃないですから。
人生色々ですから。
ではでは(^▽^)ノ
親族の子供の中には、今、秋の運動会の練習中の子供達がいます。その子達を見ていて親族の親達の感想というか、自分達なりの「子どもの生態」への理解について話を聞きましたので少し記事にしてみようと思いました。
運動会となると、親族の子達の行動はいくつかにわかれます。
・最初から参加しない(できない)子
・自分なりの工夫や装備を準備して、少しでも参加する子
・参加したくてもできない子(不登校の子や二次障害、過敏性が強い時期などが理由)
・普通級の同級生と全く同じに参加する子
などです。同じ学年の同い年、同じ性別の親族の子達が同じ小学校に通学していても、ある親族の子は運動会に同級生と同じ条件、同じ環境で参加して、ある親族の子は様々な理由からできない、ということはあります。
何が違うかと言うと、一言で言えば「子どもの状態が違う」ことでしょうか。
状態と言っても
・特性そのものや特性からの「今の発達状態」は異なる(過敏性がある、自閉の閉じ方・強さが違う、など)
・今までの積み重ね・経験が違う(経験不足、経験から積み重ねた自分なりの工夫や対策が可能な状態である、など)
・過去の積み重ねから来る心身の健康状態(健康か、不安定か、二次障害に近い状態まで行っているのか)
・発達状態が異なる(身辺自立までで、まだ社会的なイロハまでは学べていない、または社会的な学びが伸びている最中である、など)
こんな風に、同じ学年、同じ年齢の親族の子達でも上の点で異なれば、結果として集団生活上の例えば運動会のような行事に参加する、しない、できない、などの結果も自ずと変わってきます。
そのため、親族の親達も「自分の子供の状態に応じた」対応をするため、運動会まであと何日だね、とただ井戸端会議をする状態になりません。ある親族の親は運動会が終わるまで毎日、練習がある日は子供について学校へ行くことになったり、ある親族の親は学校に送り出すだけで特に何もせずにいる、ということが普通に起こってきます。
運動会当日も親族達が一緒に動いて一緒に運動会を楽しく見学する、ということもできなくなります。いわゆる「個別に自分の子に対応しなくてはならない」ので、例え親達が親族で仲がいいからといって、一緒に見に行って一緒に応援する・・・という行事の当たり前な光景が繰り広げられることはありません。
ここでタイトルの「社会的」学びと「習慣的」学び、について合わせて書いていきます。子ども達は小さいころから大人になるまで少しずつ成長し、最初に学ぶことである身辺自立=自分が生きていくための衣食住に関するノウハウ、からちょっとずつ、集団生活に入っていくようになり、社会生活のノウハウを身に着けていくようになります。
この特性や特性から来る心身の不安定や浮き沈みと付き合いながら、身辺自立から社会的な学びまで移行していく時期が、一番、発達障害の子達には苦労の連続であろうと思います。その時期にあたるのが小学生の児童期であり、小学校という「社会的学び」が盛りだくさんの組織で四苦八苦するわけです。
小学校という組織で求められることは山ほどあります。
・集団の団結や組織力
・子ども達の参加力が試される行事が盛りだくさん
・休憩時間=遊びという社会性が試される自由時間が盛りだくさん
・知識力の養成や聞く力・話す力を発揮するように求められる数多くの主教科・副教科、社会学習、体験学習が盛りだくさん
・放課後遊びという自由時間での友人関係の構築(大人であれば仕事後の上司や同僚との個人的つきあいの構築に相当します)
それにわずか6歳から6年間も対応していかなくてはなりません。
発達障害の子達は、親族の子達がそうなのですが、どんなに利発で会話力があるように見えても、保育園や幼稚園で問題のないように見えても、「身辺自立」はできていても「社会的学び」の部分が弱く、同学年の子達よりも発達年齢が1、2歳ほど下、ということは多いです。
同学年の子達が当たり前に気の合う子達と友達になりグループを作り、周囲に気を配ったり、譲ったり、時には強く出て周囲の子達の賛同を得る意志表示の仕方をしたりとコミュニケーションスキル、ソーシャルスキルを試しつつ発揮していくのに比べて、その部分で
「自分から見て・聞いて同級生のように学びとれない」
「自分であれこれ試してコミュニケーションスキル、ソーシャルスキルを積み上げていくことができない」
という特性の、社会性を学ぶ力に弱い部分がある親族の子達は、その分だけ対応能力を備えずに小学校へ上がっていくことになります。
もちろん家庭で、親と1対1で、療育先で、専門家と少しずつコミュニケーションスキル、ソーシャルスキルを身に着けていくようにはしていますが、同級生の定型の発達速度には追い付かないのが現状です。ですので、結果として発達障害の特性がある親族の子達は小学校の低学年という年齢では、集団生活の中で
「自分だけ上手く対応できない」とか
「友だちはあまり悩まず普通にやれてるのに、自分だけ悩みが多い、友達とトラブルになる」
などの現実問題に直面する日々を送ることが多いのです。
話を戻して、この状態で「さあ、行事の運動会を同級生のようにさっそうと参加してね」という期待ができるかというと、ちょっとした場面、場面でつっかえつっかえしているため、総じて「運動会の練習」そのものに対応できかねる、という状態になってきます。
例えばですが、聴覚過敏で音が無理、と言う子はノイズキャンセリング機能のついた耳宛てをして参加していたりしますが(*記事最後に耳宛てを載せておきます)、逆に過敏性のない親族の子の方が同級生が並ぶ列に並べない、ということが起こってきます。なぜでしょうか。
内面に抱える問題点が違うからです。過敏性のある子は見た目、とても特性がはっきりしていてハンディが大きいように見えますが、この親族の子の場合ソーシャルスキルの面では柔軟です。自分で「ピストルの音がするとびっくりして何もできなくなる。走れなくなるからお医者さんからイヤーマフするように言われた」と同級生に説明できる、同級生に説明して輪に加わる、ということができています。その部分では躊躇もなく、悩みもしません。
一方、運動会の練習で列に並ぶことができない親族の子は内面に葛藤を抱えています。自分が走る出番まで、隣のクラスが走っている順番を待つ間、待機時間に抱える悩みがあります。自分以外の周囲の同級生が何気に楽しく話をしたりふざけたりしている中、「自分はどうしたらいいかわからない」時間をじっと過ごしています。周囲の子達が「あまりにも普通に」会話をしていたり、砂をちょっといじりながら遊んでいたりしているのを見て・聞いてしている間に
「どうしよう、自分だけ一人だ」
「何でみんな普通に話してるの」
「自分には話しかけてくれない、でも話しかけられてもどうしたらいいかわからない、話が続けられない」
「昨日も誰とも話さずに練習が終わった。今日も自分だけ、列の中で『ぼっち』になるのかな」
なんてことを、ぐるぐる考えています。周囲の子達は自分なりに時間つぶしをしているだけで、親族の子が一人でぐるぐる悩んでいるとは気がつきませんし、特に仲がいいわけでもないので話をする理由もないですし、単なる時間つぶしの間のことですし、関わらないので知らないのです。そして親族の子は「自分から話しかける」ことが難しいです。その話しかけた後どうしたらいいかわからないからです。
そうこうしている間に、ぐるぐる悩む頭の多動がいきすぎてこの親族の子は自家中毒のようになり、運動会の練習に参加することが難しくなりました。先生やスクールカウンセラーに言ったところで
「運動会の練習は遊ぶ場所じゃないから、順番を待って自分の出番が来たら走る、それだけでいいのよ。」
「ちゃんとまじめに列に並んでふざけることもないし、頑張れているよ」
という声かけはもどってきますが、「ちょっとした自由時間に同級生と上手く付き合う会話、言動ができない」というこの子が本気で悩んで行き詰っている不安を取り除くことができません。問題は「この子自身の社会性、ソーシャルスキル」なわけですので、具体的な学校行事の参加や参加する姿勢に問題がある、ということではないのです。
親には子どもの未発達なところ、経験値がまだまだ上がっていない部分のことがわかっています。「その場で同級生と対等に、同じ様に自然に対応することができない自分のスキルのなさ」に嘆いているこの子に即席で何かできることは本当に少ないので、悩みすぎないように・頭が多動になりすぎて考えすぎて、思い詰めすぎて体調を崩すことのないように「別室に移動して強制的に頭を休める・休憩を取る」ために学校に待機していたりしました。この子は暇があると頭の多動が行き過ぎるので、頭というパソコンをスリープさせるような感じです。休憩室でこめかみをマッサージしたり、たわいない話をして「友だちとしゃべれない」思いつめ思考から気をそらせることをしました。
実際にこの子は一つ悩みだすと思い詰めすぎて待機時間に顔色が青くなったり、貧血気味になったりしていたので同級生も1人この子が抜けることに不思議は感じていませんでした。物静かでどちらかというとクラスでも存在感がないので、たびたび抜けても誰も揶揄することもありませんでした。
そうして青息吐息な状態で、何とか運動会を乗り越える、というようなことをしたわけです。
それでもこの子の親は上の兄弟が似たような状況でしたので、焦りもありませんでした。ただ、低学年の間は経験値も低い上に社会性のスキルも低いので、例え親が少しアドバイスしたところで受け入れられる器(余裕)が全くないから言ったところで無駄、むしろ追いつめるので、できることは「体調を悪くするほど多動な頭を強制スリープにすることだけ」と割り切りました。運動会の練習で同級生と同じ列で待機しても悩みつぶれることがない状態になるまで、あともう数年はかかるな、と思っているだけです。
実際にお兄ちゃんの方は、小学校では同じ様に運動会の練習さえまともに出れてませんでしたが、中学では同級生と何も問題なく運動会などの行事にも参加できています。いわゆる、「待機時間にみんなと同じ様におしゃべりしたり、普通に・自然にすごせない自分はおかしい、できるようになりたい」という無意識の焦りが、小学校低学年時点という未熟で未経験な時期ということもあり、自分自身を追いつめていた、という例であることを親は知っていました。
お兄ちゃんの方は「自分はこんな感じ」と自分への理解がすすみ、少しずつ自分に合う友達が見つかり、自信が少しつき、かつ「運動会という行事」への慣れも伴い、意識の成長、自分への理解の深まり、経験という慣れ、が同時に積み重なった時点で「参加できる」ようになっただけです。親が関わったのはこの子なりの「自分への理解」のための専門家を見つけてつなぐことや、家庭での親との会話、やりとりで認知の歪みを発見すること、不足していそうな定型社会の知識を本やDVD、テレビ番組や映画などを活用して情報提供し補うことなど、その部分が主です。「運動会」という行事への関わりではなく、です。でも結果は「運動会に出れるようになっている」のです。
大事なのは、運動会に出れないから出られるように関わる、というのではなく、「子どもの成長できていない部分」、多くの場合、自家中毒になるぐらいの思いつめぶり=頭の多動だったり、自分自身への無理解だったり、そもそもソーシャルスキルやコミュニケーションスキルがないまま身につけずにいきなり学校という集団の場で実践している状態だったり、と課題は山積みなことが多く、それらがつまづきの理由であることが多々ある、という発達障害の子独自の問題点、課題、現実を理解しておくことです。
「そんなことを気にしていないで、とにかく運動会の練習には列に並んで、走るだけでいいのよ」の言葉で解決できない「子どもの思いつめぶり」は、思考回路、考え方の癖、やめようとしてもできない頭の多動、スキル不足から来る不安などの問題が発露しているわけですから、根本的にはそこを対処しないと運動会だけでなく、他の行事やクラスの発表やプレゼンテーション、遠足、研修旅行にいたるまで影響を及ぼしていきます。どれも参加しない、したいけどできない、などの結果になっていきます。
逆に言うと、根本的な特性部分の課題に早くから取り組んでいくと、小学校中学年、高学年、中学になると、あんなに不安定でちょっとした理由であれもこれも挫折していた子が、なんとか集団生活の軌道にのれるようになってきた、という結果に至ることが多いです。
要は、いつも繰り返し記事に書いていますが、成長していない未熟な、未発達の、同級生よりも数年遅れている発達段階の弱い(遅れている)部分を学校外で、家庭で、療育先で、療育になりそうな習い事先で補っておく、定型社会のことを理解できるように利用するツールは他人でも本でもDVDでも何でもいいので、定型世界を知る機会を提供する、定型社会のイロハという情報を、知識を増やしてあげる、自分の得意・不得意を利用して生きていくことを日々、学校外(家庭・習い事先・預け先)で実践し工夫の仕方を身に着けて学校という実践の場へ戻っていく、というような地味な作業で解決していく、ということです。
トイレや着替え、食事、公共マナーなど身辺自立は1人の人間として日常生活を送る上での「習慣的」な学びです。保育園や幼稚園では主にそうしたことを発達障害の子達は自分なりにパターン化して覚えていきます。ですが、
・お友達との「会話の内容をどうするか」
・「どんな風に声をかけて、断られた時にどんな風に反応して、どんな風にとりつくろって、自尊心を損ねないようにするか」
・仲のいい子から「嫌なことを言われた・された時の言い方、逃げ方はどうしたらいいか」
・あまり知らない子から誘われた時、気が向かない時、何て言えばいいか、どうしたらいいか。
などのスキルは誰も教えてくれず学んでいません。
どうしたらいいかわからない子は、大人がアドバイスしても聞きながらそのままです。大人はそれを「聞いていない、スルーして、無視して」と誤解したままだったりします。言われても自分のスキルではできない、難しい、または言われていることすらわからない(定型の常識がわからない、自分は非定型思考だから)のです。
そのまま小学校へ上がったら、人の中で上手く泳げない=コミュニケーションがうまくいかない、社会的に上手く振舞えないのは当たり前なのです。
そこは「社会的」学びの補足が必要です。
定型発達の子供達が保育園や幼稚園という組織の中で当たり前に自分で試して学んでいくのに比べ、発達障害の子は「社会性を学ぶ装置(機能)に自動的にスイッチが入らない、発電するまでに数年かかる」状態です。その部分に関わってくれる大人、その部分を適切に刺激してくれる環境(気の合う似たような子がいる、もしくは思考回路を理解してくれる1人の人間がいる、他人の声や掲示板や飾り、お道具などの視覚の混乱でわーっとならない落ち着けるごく少人数の構造化された空間など)などを支援として調整し提供していくことが、結果的に発達障害の子の大きな飛躍、成長に結びついています。
以上、「運動会に参加できない」という事例を使って、実の所、原因は根本的な「社会的な学びがおいついておらず、社会性の部分で本人が苦しんでいるから」という点が隠れていることもある、というケースを取り上げてみました。案外、親族の子には昔から多く見られるケースです。
話しがあちこちに飛んでしまい、まとめきれないまま修正したりで下書き記事状態で約1ヶ月を経過したのですが、運動会は10月に終わるよ、今アップしないと意味がないよ、という親族の言葉に背中を押されて中途半端な草稿ですが、そのまま記事にアップさせていただきます。読みづらい文章で申し訳ありませんがご了承いただければと思います。
<参考>
ノイズキャンセラーについて:
ソーシャルスキルの学習教材の参考例:
・
・
・
・
・
・
・
伝える時のコツになる参考資料:
・
・
指定されたビルに到着して、唎酒の会をやっている会場も分かった。
どうしようかと逡巡していると、彼から電話。
着いた? ・・・ 着きました ・・・ どこにいるの? ・・・ ビルのエントランス ・・・ おいでよ ・・・ やだ
少し沈黙をしていると、階段をスマホ片手に降りてくる彼がいた。
見ーーつけっ!
小走りにやって来て、素早く私の肩を抱くと「ほら行くよ!」と近くにあったエスカレーターに乗せられた。
「もう飲み始めちゃってるから」と妙にご機嫌。酔ってるな・・・。そのまま会場に連れていかれた。
彼のお店の札を下げ、グラスと水の入った大きな紙コップを手渡され、さぁ、唎酒タイム!
連れていかれた唎酒の会は、酒販メーカーが飲食業の方向けに行っている試飲会みたいなもの。
彼の店の営業担当は可愛らしい20代の女の子。彼女の目に私はどんな風に映っていたんだろう。
日本酒を1杯飲んだところで、彼のお友だちが登場・・・背がとても高くてスリムなダンディオヤジ。
ホリカワさんといって、彼はホリちゃんと呼んでいる。彼とは中学生のころからの親友だそうだ。
私立中学の同級生ってことで分かるとおり、ホリカワさんも2代目社長。某資材屋さん。
日本酒というより、お酒全般の蘊蓄を持っているとのことで、二人でワイワイ品評している。
その姿をぼんやり眺める。促されてちょこちょこ飲み進めるけど、このまま酔いそう・・・
季節はちょうど秋。
ここで紹介されていた日本酒の多くが、秋が旬の「ひやおろし」なんだそう。
日本酒は、劣化を防ぐため二度の火入れをするが、火入れをせずに卸されるのが「生酒」、二度目の火入れをせずに卸されるのが「ひやおろし」なんだそうだ。だから生酒のフレッシュさはないけど、熟成度は高まっている…というわけ。そんなことをホリカワさんから教えてもらった。
途中、彼がトイレに行った時のこと。
ホリカワさんと二人っきりになった時、「ハッチ(彼のニックネーム)とどこで知り合ったの?」と聞かれた。
「えっ・・・」と言ったきり言葉が出ない。しばらくお互いに沈黙の後、ホリカワさんが言った。
いや・・・。ハッチがさ、急に彼女くるって言ったわりに、何にも説明してくれないし。
そうなのね。
彼はホリカワさんに私のことをどう説明しているかと思っていたら、何も説明していないのね。
脱力ですわ・・・。ハッチというニックネームは小・中学生のころからなんだそう。
ホリカワさんのいう「彼女」という言葉も、なんだろう?引っかかる。
改めて「ハッチとどうやって知り合ったの?」と聞かれたけど、彼がどう説明しようと思っているのかもわからないから、口ごもってしまった。グスグズしているうちに彼が戻ってきてくれてホッとする。
りんちゃん、今日、息子はどうしたの?
あら急に息子の話し?
ホリカワさんに対して誤魔化しても仕方ない。
今日は友だちと渋谷に映画を観に行ってます。
え?映画?息子さんっていくつ? ・・・ 中学生です ・・・ え!!
ホリカワさん、「そんな大きなお子さんがいるの???」(´゚Д゚`)とびっくりしてた・・・。
そんなに驚く?
一体、彼は私のことをどう説明しているんだろう。なんか嫌だな・・・。
えのきど和也さんを勝手に応援する人たちに大きな亀裂が入っているということは既報しました
まあ、まとまるわけがないのはわかっていましたがけっこう早かったです
原因は?
候補予定者(えのきど和也さん)と責任者予定者、選挙参謀、親戚部隊リーダー、元市議グループ
それぞれが、強い個性の持ち主のようです
通常は、だれかまとめ役とか候補者本人などが連絡調整してうまく運営していくわけですが、全員が勝手なことをやってます
それが持ち味で、「手作り選挙」なのでしょうが
潤滑剤がなくて、もう焼き付いてきています
誰かがなにか提案しても、優秀な頭脳を持った方があっさりと却下
というより、おめーら何もわかんねーのは黙ってろ
という空気なんだそうです
普通、選挙事務所というものは
一番偉いのは有権者、手伝い、後援会幹部、候補者の順なのですが、
えのきど和也さんの事務所では
全員が平等
全員で応援しよう
桜川市を変えるためには有権者ががんばれ
という、一見民主主義、中身は無責任なポリシーがまかり通っています
有権者が桜川市を変えたいなら、えのきど和也さんが市長になってもいいとおっしゃってました
「市長になってもいい」「なってやってもいい」
なんともICBMなみの高度からの超上から目線です
つまり、えのきど和也さんの事務所では、候補者と、幹部と、参謀が一番偉い、それぞれに一番偉いと思っている
有権者は一番下
手伝いはもっと下
マコーは高校じゃない 的な雰囲気が漂っています
最初のうちは「選挙ってこういうものか」と思って出入りしていた元先生や元公務員のおじさんたちも
徐々に離れてきてしまいました
当然です
行くところはないけど、いまさら大塚の事務所にも行けないし
なんだか面白くないので
大塚の事務所のポスティングやあいさつ回りに来た運動員を捕まえて
揚げ足とりのクレームをつけて憂さ晴らしします
嫌いになったけど、えのきど和也さんのネタが使えます
大塚の運動員や親戚は何を言われても我慢しますから
サンドバックがわりに言いたい放題できますのでおもしろい
ついでに事務所に電話かけて難癖つけて遊びます
そういう選挙難民が増えてきました
これから先はおそらく
誰もが事務所に片足だけ突っ込んでいて、いつでも逃げ出せる態勢をとりながら応援している
または、全員が救命胴衣をつけて脱出ボートの近くにいるというような
非常に不安定な雰囲気になっていくことでしょう
すでに同級生の一部は逃げ出してしまっています
沈みかけた勝手連の泥船に最後まで残っているのは誰でしょうか
責任者の富岡先生でしょうか、参謀のカワマタ君でしょうか
補選もなくなったので、カツタ君もがっかりしていることでしょう
早々に退却の準備をしていると聞きました
まあ、えのきど和也さんは沈没船から真っ先に逃げ出すことは間違いないと思います
こんなふうに
こちらの読み解き、かなり深い読みとなっております
数字の読み解きをされていらっしゃる方は
是非、お読みください
ゆきこさんより
ご相談
数字使い®︎MINAEからのメッセージ
お読みいただきありがとうございます
また、教えていただいたお友達にも感謝します
ありがとうございます
とてもとても興味深いお話で
とてもとても読み解きし甲斐のある内容です
まず戸籍上の数字が
2・1・6
実際にお生まれになっての数字が
3・1・6
通常、一日生まれた日が変わると大きく変わるのですが
真ん中と右の数字が同じ
きっとご両親が学年の事をお考えになって
本来の次の学年で余裕を持って行ける様に
4月2日にされたのでしょう
ご両親の優しさですね
このご両親の選ばれた人生の武器とするのが
2
人に寄り添う様に、人と一緒に
そして、実際に自分で選んで生まれてきた日での
人生の武器となるところが
3
とにかく楽しく、笑顔を絶やさず無邪気に
もしですね、、、実際にお生まれになったのが
3月31日だったら
4・11・7
と全ての数字が変わってきてたのですが
戸籍上で生年月日を変えても
選んでいる数字が
1と6
ここは、ゆきこさんにとって逃れられない
進むべき道だと思います
人の気持ちを大事にし責任感ある自立した生活を送る事
ここを達成する為に自分の糧となっているのが
2か3か
というのが現在の状況です
人に寄り添い頼り頼られながら行くか
とにかく楽観的に楽しく行くか
ご自身の本来選んで生まれてきた日は
3の楽しむ人生です
そこを思い今のお仕事の状況もされたらいいのでは
ないでしょうか
2から1に移行して行くのはハードルがあります
不安に思われても仕方がない事です
ですが、できるから移動できた訳で
認められた訳ですから
不安になる必要ありません
まっ、いっか!そのうち
って思ったら楽しくお仕事できると思います
ゆきこさんが今思い出さねばならないことは
楽しむこと
笑って楽観的に少しなること
だと思いますよ
少し深いところをお話していきますと
本来のお誕生日である
1966年3月30日であったならば
早生まれのため
1965年の方と同級生で人生を送ってきたはずです
1965年
1+9+6+5=21
2+1=3
その年自体が3という動きのある楽しむ年だったのです
ですが、実際に人生を歩まれたのは
1966年生まれの学年
1966年
1+9+6+6=22
4の中でも特別な22という
超現実的に物事をきっちし作って行く年
本来のゆきこさんは
自然と生まれる屈託のない笑顔
楽しむ事に貪欲に素直に可愛く
ご自身のサイクルが7に入ったところで
このご相談をいただいた事
とても嬉しく思います
内面に気持ちがいく時です
本来の笑顔
もう、そこに尽きます
これをお読みいただき
笑顔が生まれています事を願って
数字使い®︎MINAE
上松皆江
こういった読み解き
ご自分でできる様になる事をおすすめいたします
ご自身で確信できることで現実になるからです
1日で読み解きができる様になるセミナーに
またじっくりと深く知りたい方は養成講座へ是非
ご参加ください
一生のパートナーとして数字が味方につきます
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